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2008年03月08日

明徳義塾野球部の再出発

(4)【甲子園知らず】 心の傷抱えた3年間

2007年7月29日、春野球場。夏の選手権県大会の閉会式で明徳義塾主将の馬淵烈(つよし)は手にした盾をじっと見つめた。「何回見てもやっぱり銀色でした」。馬淵史郎監督の長男、烈の学年は甲子園の土を踏むことなく終わった。

 馬淵監督が指揮を執り始めた1990年秋から05年夏の出場辞退騒動までの15年間で、明徳は大舞台に春夏合わせて18回立った。毎年1回以上のペースで、甲子園を知らない学年は二つ目だった。

 06年8月の馬淵監督復帰直後の新チーム主将は烈が務めた。直後の新人戦を制し、センバツへの第一関門である四国秋季大会県予選も決勝まで勝ち上がったのだが…。

 高知との決勝は惨めなものだった。五回までに10点差をつけられた。現チームのエース南野悠介も含む3投手が打ち込まれた。終盤追い上げたものの、7―11。県2位で臨んだ四国大会も、そう。連打を浴びたマウンドの南野の下に主将や捕手の伊藤光が駆け寄ったが、川之江(愛媛)に3―8。甲子園どころか、3位校に敗れた。

 勝てない明徳―。理由の一番は投手力の弱さだろう。捕手の伊藤もブルペンに入った。06年秋は内野手登録だった烈が夏は背番号1。チームの骨格は、なかなか決まらない。だが、“惨敗”の理由はそれだけではなかった。「8・4」が影を落としていた。

 冒頭の07年夏の選手権。烈の学年にとって最後の大会だった。集大成の場だが、決勝で高知に敗れた後、ベンチで1人がチームメートをなじった。高校最後の試合が終わった時、3年間ため込んできた“負”がはじけたのだろうか。

 この学年から「対外試合禁止処分」の原因になった当事者を出した。大切な夢を不祥事という野球以外のもので結果的に破ってしまったことに、ナインの心は傷ついていた。弱った心は回復しきっていなかった。

 「どの選手も力は出し尽くした、と思います。悔いの残らないように練習してきたのだから…」。主将の烈は多くを語らず春野球場を後にしたが、結局、チームは心が一つにまとまっていなかった。

 オリックス入りが決まった後、伊藤に一度も甲子園に行けなかったことを尋ねた。少し考えて答えた。「『どんなに努力しても報われることがないこともあるんだ』。それを知りました」と。

 復帰1年目を終えた馬淵監督は言った。「そう簡単に投手はつくれんで。チームもそう。時間はかかる」。あの夏から2年。明徳にはもう少し時間が必要だった。

http://203.139.202.230/08yakyu/080307meitoku01.htm
(高知新聞)


全シリーズ、「904日の奇跡」は、こちら
http://203.139.202.230/08yakyu/08meitokufr.htm
posted by 高校野球 at 09:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 高 知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今日はマスカット補助球場で岡山理大附と高橋日新と練習試合が組まれていました。
結果は明徳3−2理大附
現地に出向いて応援は出来なかったのですが、父兄の話によると、見ごたえのある引き締まった試合でしたと。
ただ両チームともミスで失点してもったいなかったと。
選抜応援しています。ガッツリ行って下さい!
Posted by ポンセン at 2008年03月18日 22:26
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